03 泉に咲いた花

少年は慌てていた。
それこそ、泣いてしまいたいくらいに慌てていた。
だが、泣いてはいけない。
泣いても解決する問題ではないのだ。
零れ落ちそうな涙を、ごしごしと袖で拭う。
そして、顔を上げる。
そこにあったのは、先ほどまでの今にも泣き出しそうな子供の顔ではない。
強い眼差しで前を見つめる、幼くも力強い目をしていた。

少年は、早い足取りで歩き出した。
だが、歩き出してすぐに、自分の視界に何かを認め、足を止める。
そして、その表情に一瞬陰りがさす。
そこにいたのは、少年が最も会いたくない人物だったのだ。
「おや?こんなところで何をしているのだね」
相手は少年に気付き、気味が悪いくらいに下卑た笑みを浮かべながら近づいてきた。
正直、少年はここから今すぐにでも逃げ出したかった。
相手を無視して、何もかもかなぐり捨てて逃げ出したかった。
だが、それを自分のちっぽけな自尊心が許してくれない。
この男に負けてなるものか、と叫ぶ自分の自尊心。
さっさと逃げだしたい、と臆病になって呟く自分の本心。
少年の心の中で、その二つが葛藤を繰り返す。
「…少し所用で。それにしても、お久しぶりです…兄上」
少年は、怯えからくる震えを必死で打ち消して言葉を返す。
結局、本心と自尊心の激しい葛藤の勝者は、ちっぽけな自尊心のほうだった。
もう、いつものことだ。
誰かに会うたびに、少年は心の葛藤を繰り返す。
だが、勝つのはいつも自尊心の方。
自尊心は本当にちっぽけなのに、いつも本心は負ける。
「ああ、久しぶりだね。君に会うのは3ヶ月ぶりかな?私は隣国の視察にずっと出ていたものだからね」
そして、この相手を目の前にした時、少年の葛藤はもっとも強くなる。
二つの心がぶつかりあい、摩擦熱にも似た熱を帯びて強い葛藤を引き起こす。
それが、苦しかった。
苦しくて、つらかった。
昔はこんなことはなかったのだ。
けれど、いつのころからか少年の心の葛藤はひどくなった。
「まったく大変で仕方ないよ。正直、暇なお前がうらやましい」
隠そうともしない相手の皮肉が、少年の心を貫く。
「いや…お前の年で、私はいろいろ仕事を任されていたからな。むしろ、仕事をもらえていないお前の方がおかしいのか」
それでも、少年は屈しない。
いや、屈しないために必死に言いきかせているのだ。
「まったく、父上も甘い…。否、お前には任せきれぬと思っているのだろうな」
自分の心に逃げるな、と。
何度も何度も。
それこそ数え切れないほどに。
「お前も、はやく父上の信頼に足るものとなれ。でなければ、また陰口をたたかれるぞ」
また、下卑た笑いが少年に向けられる。
それが気持ち悪くて、少年の足が震える。
だが、後もう少し。
もう少しだ。
「さて、これから父上に会わねばならないのでね。先を急がせてもらうよ」
「…ええ。お仕事、がんばってください」
そうすれば、この葛藤から抜け出せる。
だから、早く。
早く、去ってくれ。
少年の心は葛藤に耐え切れず、悲鳴を上げていた。
心を掻き回したいほどに痛みが広がり、心が苦しみに血を流し始めている。
だから、早く。
「それじゃあな。せいぜいがんばることだ」

そういって、相手は笑いながら去っていった。





その姿が回廊の果てに見えなくなるまで、少年は硬直したまま立っていた。
そして、一呼吸おいて深呼吸する。
自分の心臓の音が、妙に耳に響いていた。
いつもより早く打たれるその鼓動。
息をするのが苦しくて、まともに空気が吸えない。
それでも、アレは去ったのだ。
少年は必死に自分に言い聞かせる。
恐れるものはもうその目の前にはない。
既に、我知らぬところへと歩いていった。
だから、もう肩の力を抜いていい。
そう分かったとき、不意に涙が少年の頬を伝う。
「よ、よかった……」
ただ一言呟くと、少年の眼から涙がぼろぼろと零れた。
自分を苦しめるものから、何事もなく開放された。
少年にとって、ただそれだけがうれしかった。
だが、同時に虚しくて仕方が無かった。
ただ、怯えることしかできない自分が、どうしようもなく恨めしい。
彼を目の前にした時、自分の心の葛藤に苦しめ続けられるだけの自分がどうしようもなく悲しい。
だが、それでも仕方がなかった。
少年が失ったものは大きすぎて、それを失ったが故に少年は無力だった。
ただ、日々に耐え続けなければ生きてはいけない。
けれど、これは彼が交わした約束を守るためだけに必要なことだった。
少年にとって、交わされたその約束は何よりも大切で、何よりも絶対だった。
だからどれだけつらくても、どれだけ他者に蹂躙されようと、どれだけ葛藤に苦しめられようと少年は日々を生きていかなくてはならない。
少年は、止まらない涙を服の袖で拭いながら、また歩き出す。
立ち止まっていては、何も解決しない。
そう、理解していたから。


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