09 魔女の指輪

 掃除は、やはり大変だった。
 細かいところを見ると結構こびりついている汚れも多く、それらを消すために時たま箒を置き、ごしごし擦っていたらかなりの時間がかかった。
 おかげで、予定されていた休憩時間は大幅に削減。
 正直やってられない、というのが青華の論だった。
 先輩侍女方の恒例新人イビリかと思いきや、聞いた話では最初はあれが基本らしい。親しくなった侍女の話いわく、あれで体力や気力を養うのだとか。
 …体力や気力も上がるかもしれないが、青華的には筋肉の方が早くつきそうな気がした。
と りあえず、青華は変なことを気にするのはやめて控え室の帰路へと着くことにした。せめて、座って冷たいお茶を飲みたかった。数時間何も飲んでいないし、座ってもいない。足も手も既に慣れない作業に悲鳴を上げていた。
 床に置いたバケツ代わりの桶を手に取って、侍女用の控え室へと歩き始める。この掃除した場所からそこまでも、結構な距離がある。そう考えると成果はまた鬱になるが、仕方ない。
 白い石で組まれた廊下を足早に歩きながら、ガラスのない大きな窓から外を垣間見た。
青く晴れた雲一つない空。
 そして…鮮やかなエメラルドグリーンの海―――碧海(へきかい)。
 始めてみたときに青華は驚いた。こんな鮮やかな色の海を見たことがない。一面に広がるその雄大な海は、異世界を思わせるのに十分だった。
 碧の海。
 自分の知らない世界。

 結局、私はどうなっていくのだろう―――

 漠然とした不安に駆られながらも、青華は足早に廊下を歩いていった。





「あら?アーリ、あそこの掃除終わったの?」
「うん、やっとね…」
 侍女控え室にやっと戻ってきた頃には、青華の息は荒くなっていた。すぐに、近くの椅子に座り込むと、テーブルの上にあった冷たいお茶を一気に飲み干した。
 さわやかな香りと冷たさが口に広がっていく。その爽快感に、一息つく。疲れた身体に染み渡るようで、非常に心地よかった。
 そしてテーブルの上においてあったお菓子を手にしようとした時―――
「アーリ!」
 幻聴が、聞こえた気がした。
 よっぽど疲れているのだろうか。自分の名を『彼』に呼ばれた気がするけど、『彼』がここに来るはずはない…はずだった。
 そうだ、きっとそうに違いない。
 青華は、そう無理やり解釈して、再び菓子に手を伸ばす―――
「ねえ、アーリ!!」
「……」
 どうやら幻聴ではなかったらしい。
 青華は、見たくないものを見てしまったかのような表情で、その声の主の方へと顔を向ける。
「なんでこんなところにいるんですか!?」
「君を呼びにきたからに決まっているからだろう」
 戸惑う青華の前で、目の前の人物―王子ライテッシャはそう言い切った。







「それで?何の用ですか、王子様」
 不機嫌な感情を言葉に混ぜつつ、その言葉はライテッシャへと紡がれた。
 ライテッシャの気まぐれのために、青華の貴重な休憩時間をつぶされたのだ。不機嫌にもなる。
 だが、その様子に気づいているのかいないのか―――ライテッシャはにっこりと青華に笑いかける。
「いや、アーリがどんな様子なのか見にきただけだよ。ちゃんとやっていけてるかなぁ、と思って」
 その言葉に、青華が自分の内部で何かが切れる音を聞いたのは、気のせいではないだろう。
 そんなことのために私の休憩時間はつぶされたんですか。
 青華は猛烈にそう抗議したかったが、何とか本音を飲み込む。元々、この侍女としての仕事は青華自身が願い出たものだった。客人として扱われるよりも使用人として扱ってくれる方が気が晴れる、といってエンディカにお願いしたところ、城内の侍女としての仕事を紹介してくれた。元々、もうすぐ祭りがあるとかで城内では猫の手を借りたいほど忙しいため、臨時雇いの侍女を多く集めていたのだ。そして長年勤めており信頼のあるエンディカの紹介であれば、と城の関係者はすんなり青華を雇ってくれた。
 そんなわけで、普段は侍女として城で働きつつ、仕事が終わったらライテッシャに会いに行くというのが青華の日課になっていた。だが、ここ数日は慣れない仕事がきつくて、仕事後にライテッシャに会いに行くのもきつかった。青華の自由になる時間といえば本当に僅かな時間しかないのだ。休憩時間もその一つで、青華にとっては数少ない休みを取れる時間でもあった。
 それなのに、この王子は!
 青華は恨みがましく先を歩くライテッシャの背中を睨むが、彼は青華の思惑には気づいていなかったらしい。窓の外の碧海を見つめ、彼は言葉を続ける。
「後…見せたいものがあったんだ」
 そう言って背後の青華へ視線を戻したライテッシャはかすかに微笑んだ。そして、いきなり青華の手を掴む。
「来て。どうしても君に見せたいものがあるんだ」
 ライテッシャが掴んだ青華の手をゆっくりと引っ張った。こっちへ来てほしいと、言うかのように。
 その様子に、青華はしょうがない、と腹を括った。ライテッシャに対する怒りはまだ燻っていたが、とりあえず怒っていてもしょうがない。このまだ幼い王子が言い出したら効かないのは青華とて既にわかりきっていることだった。
 結局最後は休憩時間を返上して付き合うしかないと覚悟を決めたのだった。


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