18 翠の魔術師

 ライテッシャから逃げ出した青華は、長い回廊を一人走っていた。
息が苦しくて、気持ちが苦しくて、青華は不意に泣きたくなる。

 どうして、こんなことになったのだろう。

 駆けていた足を止め、青華はその場で佇み、自問する。
だが、それで、答えが出るわけがない。
 自分がこの世界に来た理由。
それに回答する術を青華は持たない。
 心が苦しかった。
苦しくて、苦しくて、どうしていいかわからない。
 最初から分かっていたはずだった。

自分は、ライテッシャの望む存在ではないのだと。

彼の幻想の代理品でしかないことくらい、分かりきっていたはずだったのだ。
 涙が溢れそうになる。
目を必死で抑えて、青華はそこで立ち尽くした。
 今、泣いてしまえば、もうもたない。
泣いてしまったら、きっと立ち直れないことが分かっていたから、青華は泣きたくなかった。
 けれど、心が締め付けられるほど苦しい感情の波が、それを許してくれない。
目尻から一筋零れた涙を青華は抑えられなかった。

「あれ。…泣いてるのか、あんた?」
 突然、回廊に響いた声。
青華は顔を上げ、背後を振り向く。
 そこにいたのは、見たことのない暗い緑色の髪の少年だった。
 少し癖のある髪は、両端が内側に向かって少し跳ねている。
 瞳は、昔一度だけ見た琥珀の宝石のように明るい榛色。
人懐っこそうな顔をしているのに、どこか影があると感じる。
それは着ているのが黒く重苦しい長衣のせいかもしれない。
黒一色の着衣は、比較的明るい色を好んで着用している者が多い王宮内では珍しい。
黒を好んで着るのは、青華はデナンダールくらいのものだと思っていた。
「誰?」
「俺?あんたに聞きたい事がある人」
青華が泣くのとは対照的に、少年はにこりと笑った。
 その顔からは、目の前の青華に対する興味が伺えた。
「聞きたいこと……?」
「そ。泣いてるとこ悪いんだけどさ、こっちも早急に確認しときたかったから」
 少年の言葉をを聞きながらも、青華には今、人と会話するだけの余裕は無かった。
自分のことだけで精一杯なこの時に、余裕を持って会話することはできそうにない。
できれば、早く切り上げたい。
そう思った矢先、問われた言葉に青華は息を呑んだ。
「あんただろう?この前、デナンダールに絡まれていた侍女っていうのは」
 何故、そのことをこの少年が知っているのか。
零れそうになっていた涙が、一瞬で引く。
青華は、引きつった顔で目の前の少年を凝視した。
「あんた、建国祭前なのに、アウリフィカを咲かせたんだろ?…俺にも見せてよ」
少年が不敵に笑う。
「…何を勘違いしているの?アウリフィカは建国祭にしか咲かないんでしょう?…私が咲かせられるわけ、ないじゃない」
 冷静を装い言葉を選ぶ。
そうだ、あれはただの偶然だ。
あれから、他の《青き花(アウリフィカ)》に触っても、何の反応もなかった。
 だから、あれは偶然の出来事であって、決して自分が咲かせたわけではないはず。
青華はずっとそう思っていた。
だが、動揺は、震える声の端々に現れていた。
「じゃあ、君は自分はやってない、って断言するんだ」
少年の表情は笑顔なのに、目が笑っていない。
その瞳の奥に、青華を暴こうとする冷徹な意思が見え隠れする。
「ええ、そうね。…話はそれだけ?」
 青華は、これ以上この少年に関わりたくなかった。
暴かれてはいけない何かを、暴かれてしまいそうな不安が湧いてくる。
何よりも、彼の瞳が恐ろしかった。
その瞳をどこかで見たことがあるような、そんな錯覚にまで陥ってくる。
感じるのは不安、恐怖―――そして、怒り。
どうしてこんな不安と恐怖を感じなければならないのか、その理不尽さを呪う怒り。
「けど、デナンダールは君が咲かせた、と断言して憚らないんだよね。あの人横暴だし、がさつだし、性格悪いけど、あれだけ大きく嘘をつけるほど器用な人でもないんだよなー。だから、俺も本当なんじゃないか、って思ったんだけどー…。…君、本当にできないの?」
「しつこいわね。できないって言っているでしょう?」
 青華に詰め寄る少年の声が、何故か妙に癇に障ってきた。
 ふつふつと沸いてきた気持ちが消えない。
 むしろ、助長されているかのように大きくなっていく。
 鎮火しかけていた何かに、酸素を送り込まれているかのような感覚。
 怒りが消えない、止まらない。
「でもなぁ…本当に」
「だから、しつこいって言っているでしょう?!」
 青華は、自分の中で何かが切れた音を聞く。
「いい加減、黙ってよ!」
 次の瞬間、青華は文字通り、『爆発』した。


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