ライテッシャから逃げ出した青華は、長い回廊を一人走っていた。 息が苦しくて、気持ちが苦しくて、青華は不意に泣きたくなる。 どうして、こんなことになったのだろう。 駆けていた足を止め、青華はその場で佇み、自問する。 だが、それで、答えが出るわけがない。 自分がこの世界に来た理由。 それに回答する術を青華は持たない。 心が苦しかった。 苦しくて、苦しくて、どうしていいかわからない。 最初から分かっていたはずだった。 自分は、ライテッシャの望む存在ではないのだと。 彼の幻想の代理品でしかないことくらい、分かりきっていたはずだったのだ。 涙が溢れそうになる。 目を必死で抑えて、青華はそこで立ち尽くした。 今、泣いてしまえば、もうもたない。 泣いてしまったら、きっと立ち直れないことが分かっていたから、青華は泣きたくなかった。 けれど、心が締め付けられるほど苦しい感情の波が、それを許してくれない。 目尻から一筋零れた涙を青華は抑えられなかった。 「あれ。…泣いてるのか、あんた?」 突然、回廊に響いた声。 青華は顔を上げ、背後を振り向く。 そこにいたのは、見たことのない暗い緑色の髪の少年だった。 少し癖のある髪は、両端が内側に向かって少し跳ねている。 瞳は、昔一度だけ見た琥珀の宝石のように明るい榛色。 人懐っこそうな顔をしているのに、どこか影があると感じる。 それは着ているのが黒く重苦しい長衣のせいかもしれない。 黒一色の着衣は、比較的明るい色を好んで着用している者が多い王宮内では珍しい。 黒を好んで着るのは、青華はデナンダールくらいのものだと思っていた。 「誰?」 「俺?あんたに聞きたい事がある人」 青華が泣くのとは対照的に、少年はにこりと笑った。 その顔からは、目の前の青華に対する興味が伺えた。 「聞きたいこと……?」 「そ。泣いてるとこ悪いんだけどさ、こっちも早急に確認しときたかったから」 少年の言葉をを聞きながらも、青華には今、人と会話するだけの余裕は無かった。 自分のことだけで精一杯なこの時に、余裕を持って会話することはできそうにない。 できれば、早く切り上げたい。 そう思った矢先、問われた言葉に青華は息を呑んだ。 「あんただろう?この前、デナンダールに絡まれていた侍女っていうのは」 何故、そのことをこの少年が知っているのか。 零れそうになっていた涙が、一瞬で引く。 青華は、引きつった顔で目の前の少年を凝視した。 「あんた、建国祭前なのに、アウリフィカを咲かせたんだろ?…俺にも見せてよ」 少年が不敵に笑う。 「…何を勘違いしているの?アウリフィカは建国祭にしか咲かないんでしょう?…私が咲かせられるわけ、ないじゃない」 冷静を装い言葉を選ぶ。 そうだ、あれはただの偶然だ。 あれから、他の《青き花(アウリフィカ)》に触っても、何の反応もなかった。 だから、あれは偶然の出来事であって、決して自分が咲かせたわけではないはず。 青華はずっとそう思っていた。 だが、動揺は、震える声の端々に現れていた。 「じゃあ、君は自分はやってない、って断言するんだ」 少年の表情は笑顔なのに、目が笑っていない。 その瞳の奥に、青華を暴こうとする冷徹な意思が見え隠れする。 「ええ、そうね。…話はそれだけ?」 青華は、これ以上この少年に関わりたくなかった。 暴かれてはいけない何かを、暴かれてしまいそうな不安が湧いてくる。 何よりも、彼の瞳が恐ろしかった。 その瞳をどこかで見たことがあるような、そんな錯覚にまで陥ってくる。 感じるのは不安、恐怖―――そして、怒り。 どうしてこんな不安と恐怖を感じなければならないのか、その理不尽さを呪う怒り。 「けど、デナンダールは君が咲かせた、と断言して憚らないんだよね。あの人横暴だし、がさつだし、性格悪いけど、あれだけ大きく嘘をつけるほど器用な人でもないんだよなー。だから、俺も本当なんじゃないか、って思ったんだけどー…。…君、本当にできないの?」 「しつこいわね。できないって言っているでしょう?」 青華に詰め寄る少年の声が、何故か妙に癇に障ってきた。 ふつふつと沸いてきた気持ちが消えない。 むしろ、助長されているかのように大きくなっていく。 鎮火しかけていた何かに、酸素を送り込まれているかのような感覚。 怒りが消えない、止まらない。 「でもなぁ…本当に」 「だから、しつこいって言っているでしょう?!」 青華は、自分の中で何かが切れた音を聞く。 「いい加減、黙ってよ!」 次の瞬間、青華は文字通り、『爆発』した。 |