21 嘘と真

《かわいそうな、せいかちゃん》

脳裏に、女の姿が浮かぶ。
嫌なことを考える時、いつも浮かぶ、あの情景。

《ねぇ、もういいよね?さいしょからいなくてもよかったなら、せいかちゃんは、もういらないよね?》

 伸ばされた手が、青華の首に絡みつく。
いやに白く細い手。
それなのに、その手の力は、強くて。

《ねぇ…死んで?》

 可愛らしい声で、告げられた言葉。
 虫も殺すことができない、優しい子どものような声で、残酷なことを言う。
 おぼろげな女の手が、首に絡みついた。

《嘘つきなせいかちゃん》

 手に力がこめられる。
 喉が絞めつけられる。
 息が苦しい。
 呼吸が、できない。

《わたしが殺してあげる。せいかちゃんに意味がないのなら、わたしが―――》

「違う!」
 脳裏に響く声に、青華は拒絶の言葉を叫んだ。
「違う!私は…私は!」
《あは、はははは、ハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ!!!!》
 女の笑い声が聞こえる。
聞きたくないのに、その情景がフラッシュバックする。
白い天井。
見開かれた目。

女は狂ったように笑いながら、私の首を絞めて―――
「違う、私は……私は!」
 消えない悪夢に、青華は自らの顔をその手で覆う。
顔の表皮に爪が食い込み、削られた額から血が流れる。
掌を伝う赤い血が、青華の目の端に映った。
 そうだ、あの時。
 あの女を、自分は―――


「そこから先に行くのはお止めなさい」
 背後から、声が響く。
 腕から力がすっと抜け、手が落ちる。
「その先は、まだ早い」
 振り向きたいのに、振り向けない。
また、身体が動かない。
「これ以上、見てはいけない。あれは、今の貴方にとっては『毒』だから」
 正体の見えない相手は、強い口調で言った。
 そして、『毒』と断じた目の前の存在へ、その言葉を言い放った。
「消えなさい、幻想よ」
 その声に、顔の無い女の輪郭が揺らぐ。
 そして、暗闇に溶けて―――消える。
 あっけない幕切れだった。
 青華は、唖然と目の前を見つめるが、女の痕跡は何一つ残っていない。
 まるで、化かされたかのような心地だった。
 だが、目前の脅威が消えても、背後の存在は消えていない。
 突然、見えぬ相手の白い手が背後から伸び、その掌が青華の目を覆った。
「なに、を……!」
「忘れなさい」
 凛とした、鈴が響くように美しい声。
―――この響きに、全てが赦される。
 暗く汚れた想いが、清められ、雪がれる。
 青華は、目を閉じた。瞼に、覆われた掌の感触が伝わる。
 心地よい冷たさ。抗いがたい眠りが青華を誘う。
「今はお眠り。―――そして、現へ」
 この声には、抗えない。
 糸が切れるように、ぷつりと青華の意識はそこで途切れた。





 少女の身体の輪郭はおぼろげになり、やがて溶けるようにこの場から消えた。
 それを見届け、女は小さく息を吐き出した。
 どうやら、無事に彼女は『帰った』らしい。
今の段階で、彼女が此処に来てしまったことは、女にとって予想外だった。
「おや、帰してしまったのかい」
 嘲笑うような声が、空間に響いた。
 姿は無い。
 けれど、そんなことは女にとって先刻承知のこと。
気まぐれな声の主は、滅多に女の前に姿を現すことはない。
「……やはり、覗いていたのですね」
「ああ、見ていたとも」
 彼の人が、こんな自体を見逃すこと自体がありえない。
「『枷』を自ら吹き飛ばしたと思えば、一足飛びに此処まで来るとはね」
今回のことは、彼の人にとっても予想外の出来事だったことに違いない。声には若干の驚きと、それを上回る喜びが混じっている。
「ああ……面白いね、あの子は」
 くすくすと笑いながら、声の主は満足そうに呟く。
「本物かどうかはともかくとして、しばらくは楽しめるだろうよ」
 姿の見えない主はいつまでも笑っていた。


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