RAKA〜優しい月〜



もしも生まれ変われるのならば、私は月になりたい
貴方を照らす、優しい月に



 夜の闇に覆われた森の中で、黒衣の影が舞う。黒衣の影は、一つだけではなかった。暗闇の中、駆け回るその影の数は複数。それらは、そこにいるただ一人を狙っていた。
 狙われていたのは、一人の男だった。暗闇の中に溶け込んでしまいそうな男の黒髪が、彼の動きに合わせて舞う。そして、その身に纏うのも黒い外套であり、その手に握られているのもまた漆黒の剣だった。
 男がまた一振り、彼の腕の長さよりも短い剣を振るうと、肉を断つ感触がその手に伝わり、生暖かい液体が男の頬に飛び散った。剣を持っていない左手で頬に触れれば、ぬるぬるとした感触があった。鉄くさい臭いが鼻をつく。
 だが、それに気を取られている暇はない。男は捉えづらい影を一人、また一人と屠っていく。暗闇に閉ざされた世界の中で、肉が斬られる鈍い音と赤黒い血の生臭さだけが、そこで行われている惨劇を物語る。だが、その惨劇も男が剣を振るう度に終焉へと近づいていった。
 やがて、最後の影に、その剣が突きたてられる。最後の黒い影―――黒衣に身を包んだ痩身の男は、その身体に剣を突き立てられた瞬間吐血する。だが、最後の執念だったのか、己を斬った黒い外套を纏った男の足を震える手で掴む。
「……裏切り、者め」
 口内から流れ出す血をも意に介さず、痩身の男は、掴んだ相手を罵る。
「いつ、までも、逃げられると……思うな。ディアクロウ……!」
 だが、それまでだった。痩身の男が罵った瞬間、外套の男は彼の首を刎ねた。おびただしい血が噴き出し、男の黒い外套を赤に染める。その作業を終えた彼は、終始無表情だった。だが、ただ一言だけ、自嘲するように呟いた。
「……それくらい、わかっているさ」
 既に物言わぬ屍となった影を一瞥すると、黒い外套の男―――ディアクロウは、踵を返した。彼は、もう振り向かなかった。



 早く、落としてしまわなければ。
 ディアクロウは自分でも気づかないほど焦っていた。
 不穏な空気を感じたのは、日が暮れる少し前だった。一瞬だけ背中に突き刺さった不自然な視線を、彼は見逃さなかった。いつの間にか自分達に刺客がかけられていた、ということを彼はすぐに理解した。幸い他の仲間達は気づいていなかった。いつも通り日が完全に暮れる前に野宿の準備をはじめ、簡単な夕食を済ませてしまうと、彼らは眠りについた。ディアクロウが見張りの役をかってでて、全員が眠りについたことを確認してから、その場を離れた―――視線の主を探し出すために。
 さらに幸運だったのは、その刺客が他の仲間を狙ったものではなく、彼自身を狙っていたということだった。そのことさえわかれば、後は簡単だった。
 ただ、全ての刺客を誘きだし、殺してしまえば済むこと。連中を殺し、全て闇に葬ってしまえばいい。そして、何もなかったことにしてしまえばいいのだ。そうすれば、仲間に余計な心痛を与えなくて済む。
 ディアクロウの脳裏に、一人の少女の姿が浮かぶ。仲間の一人、銀色の髪の少女―――シンシア。
シンシアにだけは知られたくない。何故か、彼はそう思った。
 いつも絶え間なく、くるくると表情を変える銀髪の少女。もし、彼が先程為した事を知ったなら、あの鮮血のように赤い瞳はどんな感情の色を映し出すのだろう。それを考えたとき、彼は何故か恐ろしかった。
 
ディアクロウは、暗い木々の合間を縫うように、足早に歩く。確か近くに小川があったはずだった。そこで、身体にこびりついた返り血を落としてしまわなければならない。返り血を被った黒い外套は、もう使い物にはならないだろう。それに、血を被った外套を持ち帰れば、仲間に何があったかが知れてしまう。それだけは避けなければならなかった。外套はどこかで処分し、荷物の中にある代えで代用するほかないだろう。
 とりあえず、頬や髪についた血を落とすこと先決だった。足早に歩くディアクロウの耳に、小川のせせらぎが聞こえてくる。小川はもう、すぐそこだった。
 暗い木々の合間から抜けると、突如空が開ける。そこに小川があるはずだった。小川だけが、あるはずだったのだ。
「おかえり、ディア」
 それなのに、その少女はそこにいた。澄んだ声が、静かな夜に響き渡る。
「……何故」
 ディアクロウは、我知らずその疑問を口にしていた。
 ここにいるはずのない少女。白銀の長い髪が風に揺れて、鮮血のように赤い瞳がこちらを見ていた。
―――シンシアが、そこにいた。



「おかえり、ディア。ケガはしてない?」
 そう言って、シンシアは柔らかく微笑んだ。
「一応ね、ディアの荷物から代えの服も持ってきたの。あ、外套も」
 シンシアは腕に抱えた包みを示す。包みの中には代えの服や外套だけではなく、いくつか薬瓶も覗いている。おそらく、万が一を考えて持ってきたのだろう。だが、それはディアクロウにとってたいした問題ではなった。
「あ、ディア。頬、汚れてる…」
 シンシアが、ディアクロウに駆け寄る。そして、その頬に触れようとした時。
「触るな!」
 ディアクロウがいきなり叫んだ。突然のことに、シンシアが驚いて動きを止める。その目に微かな怯えが浮かぶ。
「俺に触れるな。…お前まで、汚れる」
 それを見て、ディアクロウは衝動的に叫んでしまったことを後悔する。彼は一息つき、言葉を選びながら、再びシンシアに声をかけた。
「…何故、ここがわかったんだ、シンシア」
 何もかも闇に葬り、朝には何もなかったことにするはずだった。血生臭い自分の姿を見られることなく、全てを終わらせるはずだったのに。仲間にも気づかれないように細心の注意を払っていたはずだったのだ。
シンシアに、気づかれたくなかったから。
それなのに、シンシアは気づき、此処まで来てしまった。…こんな血に塗れた姿を、見せたくなかったのに。
「…月」
 シンシアが不意に呟いた。
「何?」
 うまく聞き取れず、聞き返す。
「今日は… 月が満ちていたから。輝月の日だったから。だから、私にも見つけられたの」
 シンシアの言葉に、ディアクロウは空を見上げる。天高い空の頂に輝く丸く満ちた満月。月が輝きを増し、闇夜を最も明るく照らす日。空に煌く星々の灯りさえも打ち消すほど、月は輝いていた。
「月、か」
 先程まで、光さえ通さないほど鬱蒼とした木々の合間にいたから、気がつかなかった。木々を抜け、空が開けたこの場所にあって、ディアクロウの姿はそこにはっきりと浮かび上がっていた。
 成程、この明るさならばシンシアにもディアクロウは見つけ出せるか。
「つくづく俺はこの世界に嫌われているらしい」
 ディアクロウは自分を嘲笑いながら、俯いた。
 一番隠しておきたい相手に、自分が見つかるというこの皮肉な結果。その理由が、闇夜に輝くという矛盾を抱えた月の光が、自らを照らしていた結果だという。
「お前が月の光で俺を見つけてしまうように、夜にあっても俺のような罪人には居場所はないのか…」
 闇夜を月が照らすのならば、闇は完全な暗闇であることはできない。真実を闇で覆ってしまえないのならば、それは同時に闇に生きるものたちもまた、完全な闇の中には隠れられないということ。
なら、自分は何処へ行けばいい?
 幾度も繰り返した問いに、未だ答えは出ていなかった。
「ディア、それは違う」
 シンシアが、否定の言葉を呟く。その言葉にディアクロウが頭を上げようとした時、不意にシンシアの手がその頬に触れた。まだ渇いていない血が彼女の手にこびりつく。
「馬鹿。汚れるといっただろう」
ディアクロウはその手を振り払おうとしたが、それは叶わなかった。シンシアのまっすぐな瞳が、彼の目を捕らえたからだ。その赤い瞳から目をそらすことができない。
「ディア、月はただの導。月は誰も責めたりなんかしない。ただ導を与え、大地を見守るだけ」
 シンシアはそう言って、空を見上げる。空の頂に達した月はちょうど彼らの真上に来ていた。
「月は見守っているんだよ、この大地に生きる<ヒト>を。唯人も、罪人も、魔物も、皆遜色なく。ただ見守り、柔らかな光によって導と安らぎを与えてくれる」
月の光は温かくも冷たくもなく、ただ大地を照らすだけだ。そこにいる彼らもまた、その中に含まれる存在でしかない。
「ディア、そんなに世界を憎まないで。…世界は、貴方が思っているより優しいよ」
 シンシアの手が、ディアクロウの頬の血を拭う。鉄くさい血が、シンシアの手を更に赤く染め上げる。
「でも、貴方が世界を… 月を、認めることができないなら。……私が、貴方の『月』になる」
 そう告げたシンシアの瞳は、彼女の優しさを映していた。その瞳に見つめられると、何故かディアクロウは、胸が締め付けられる思いがした。
「貴方が暗い闇の中でしか生きられず、ずっと血を被る運命なら、貴方が迷わないように……私が貴方の『導』になる」
 強い決意と共に、シンシアがディアクロウに告げる。
 夜に輝く月光が眩しすぎるというのなら、光無き自分が『導』になろう。その運命に供することができなくても、貴方がこの世界で迷わないように、貴方の『導』に。
 そんな意思を秘めたシンシアの眼差し。まっすぐな目でそれを告げる彼女の瞳に、迷いは無い。
 彼女が何故ここまで強く、優しく在れるのか、ディアクロウにはわからなかった。
ただ、彼女の優しさだけが胸に染みて、泣きたくなる。

 いつか、世界を許せる日が来るのだろうか。彼女と共に歩いていけたなら。この世界で、生きていけたなら。
 この世界を、愛せる日が来るのだろうか。

 ディアクロウは、与えられた導に手を伸ばす。それを見たシンシアは笑って。

 二人の手が重なる。
 罪人たる男と、無垢な少女のその手が。

 それを夜空に輝く満月だけが、見守っていた。

 






 もしも生まれ変われるのならば、私は月になりたい。
 貴方を照らす、優しい月に。
 貴方が暗い夜に迷わないように、導となれればいい。
 そして優しい光で貴方を包み、安らぎを与えられればいい。

 貴方が幸せであるように。
 私はそれを見守る存在でありたいのです。





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