夢を、見た。
あの真白の夢を。
思い出したくない、あの夢を。
「…ダメ、だなぁ」
セナは、バルコニーの柵にひじを置き、額に手をついた。
見たくもない夢を、再び見てしまった。
眠りにつくことが出来なくなる、あの夢を。
もう目がさえてしまって、今日は眠れないだろう。
セナは、今更こんなことで動揺してしまった自分の弱さに呆れてしまう。
「いい加減、強くならなきゃいけないのに」
誰かを守れるくらい、強く。
それがいつか願った夢。
セナは、今日の出来事を振り返る。
サクリーフの一瞬の油断をついた、あの巨人の攻撃。
本当に、肝が冷えた。
危ない、と思った時にはもう、身体が動いていた。
もしかしたら、彼の実力をもってすれば、あれくらいの攻撃はものともしなかったのかもしれない。
けれど、巨人の腕を間一髪で切り落とし、サクリーフを助けることができたあの時。
自らが紡いだ軽い言葉とは裏腹に、セナの心臓は音を速くして大きく鳴り響いていた。
不安を打ち消すように、ただ何度も高速の剣を振るった。
この魔物がもう二度と目の前の人を傷つけることがないように、そう願って。
ただ、何度も切り刻んだ。
無残なくらいに、切って切って…切りまくった。
やりすぎる必要はない。感情に任せて剣を振るな―――
昔、父にそう言われた。
感情に任せて剣を振るって、見誤るなと。
それは、自分をも危険にしてしまうと。
でも、それでも。
「怖い、んだよ…父様…!」
誰かが死ぬこと。
誰かが目の前からいなくなること。
怖い。
怖くて、何も見えなくなってしまう。
それが、どんなに危険なことか自分でもわかっている。
けれど、止められない。止めることなんてできない。
最もセナが恐れていること、それは―――
「まだ、怖がっているんだね。セナ」
突然、どこからか声が響いた。
セナは、その声に、目を見開く。
「誰!?」
セナは顔を上げた。
そして、見たのは―――
「…黒い、髪…?」
いつのまにか空に広がった黒い髪が、揺れていた。
「そう、セナと同じ黒い髪だよ」
真っ白な襤褸(ぼろ)を纏った少女が、空に浮かんでいた。
帳の落ちた夜の闇の中で、その眼窩に嵌め込まれたかのように輝く紅玉のような瞳。
その双眸が、セナの黒い瞳を見つめている。
「セナは、まだ怖がっているんだ?あの静寂(しじま)を、恐れているんだ?」
少女は、鈴が転がるように笑った。
「貴女は…」
セナが呆然と呟くが、少女の言葉が彼女の言葉を遮る。
「駄目だよ。それじゃあ、駄目。あの闇を、静寂を、恐れたままじゃ、セナは」
少女の妙に白い手が、セナの頬に触れた。
だが、セナは、そのことに気づかない。
ただ、その赤い双眸を見つめたまま…魅入られたまま、動けない。
「ねぇ、セナ。あの森の恐怖を覚えてる?…覚えてるよねぇ、忘れられるわけがないもの」
そう言って、少女はセナの頬を爪で傷つけた。
頬に線のような傷が走り、赤い血が、流れる。
「セナは、今でこそ此処に居るけれど、まだ心はあの場所にある」
少女は、流れ出た赤い血を、自らの指ですくった。
手が、赤く染まっていく。
赤い血が、手を、染め上げていく。
「ねぇ、まだ怖い?まだ逃げたい?」
そう言って、少女はセナから手を離した。
「忠告してあげる、セナ。今起きてる魔物の増加は、あの森が原因」
その言葉に、やっとセナは反応を示した。
あの森―――その言葉が指すのは、たった一つしかない。
「あの森こそが、全ての原因。あそこに在るアレを叩かなきゃ、いつまでたっても魔物の増加は止まらない」
少女は、そう言って空高く舞い上がる。
「待って!それって、どういう…」
セナはそれを見て、手を伸ばした。
このままでは、少女は去ってしまう。
少女を引き止める。
ただそれだけのためにセナはバルコニーから身を乗り出した。
そして、少女は静止し、セナへ振り向いた。
あの、笑顔を再び浮かべて。
「真実はセナの中にあるよ。セナが此処に存在するわけも、私がセナの所へ来たわけも」
少女は、次の瞬間、笑顔をかき消した。
そして、まるで貴婦人のように一礼して。
「ねぇ、セナ。覚えておいて」
真摯な声と共に、紡がれた言葉。
それはセナへの宣言だった。
「私は、エリネア」
エリネア。
それが、少女を示す言葉。
その名がセナの中に刻まれる。
彼女自身、訳がわからないまま。
「聖騎士が来た。エリネアも此処に存在し得る存在になった。これで、使える駒は全て揃った。だから後は、セナ。貴女だけ」
そして、その言葉を発した直後。
エリネアの姿は、掻き消えた。