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かつん、と小さな靴音がした。 その音に気づき、青華が背後を振り向くと黒い髪と碧の瞳を持つ精悍な青年が、こちらを凝視していた。 黒を基調とした服を纏い、肩に青い長布を掛けているその青年の姿は一度だけ見たことがあった。 ライテッシャと共に城内を歩いていた時、ライテッシャが彼の気配を感じた途端に、隠れるようにして逃げ出した。 ライテッシャが、「兄上」と呼んでいた―――第二王子デナンダールその人が、そこにいた。 「…女。貴様、何者だ」 デナンダールが青華に近づいてくる。 デナンダールが青華に向ける、突き刺すような視線に彼女は震え上がった。 『危険だ』と青華の中で警鐘が鳴り響く。 その視線から逃げるように、青華はその場から駆け出そうと立ち上がった。 だが、デナンダールが、青華が逃げるより先にその腕を掴んだ。 「待て！今のはなんだ、貴様！答えろ！」 「え…あ……」 激しく追求するデナンダールの声に、青華は怯えを通り越して竦んでしまった。 頭の中が混乱して、なんとかしなければ、と思うのだがどうすればいいかわからない。 怖くて、怖すぎて、心が恐怖で支配されてしまう。 青華が完全にデナンダールへの恐怖で竦んでしまっている、まさにその時だった。 「女性に、そう無体なことをするものではないよ、デナン」 デナンダールの背後から、衣擦れの音と共に男性の声が響いた。 「…フィラカスース」 そこにいたのは、デナンダールとは対照的な容姿を持った青年だった。 緩やかな曲線を描く金髪の髪は左肩付近でゆるく結われており、その青い瞳は少し垂れ目なためか、穏やかな印象を受ける。 纏っている白い長衣の袖から覗く男にしては細い手首は、施してある繊細な金糸の刺繍と相まって、さらにほっそりとして見えた。 端正で美しい顔立ちをしているが、全体的に見て細いその身体は、がっしりとした体格のデナンダールと比べ軟弱そうに見えた。 「手を放せ、デナン。その子が怯えているじゃないか」 至極穏やかな声でデナンダールに告げる青年は微笑すらその顔に浮かべていた。 しかし、デナンダールに向けたその目だけは違う。 顔は穏やかな微笑を浮かべているのに、その青い双眸だけは、デナンダールのそれにすら劣らぬ気迫と強固な意志が宿っていた。 外見とそぐわないその内面の強さは、ただ一言声を聞いただけでもありありとわかる。 これが、ライラーテの第一王子たる王太子フィラカスース。 青華はライテッシャの言っていたことを思い出した。 病を患い、現在ではほとんど公式の場に姿を現さない第一王子。 しかし、それでも優しさと気高さを失わない兄を、ライテッシャは誰よりも尊敬し憧れていた。 「珍しいこともあるものだな、フィラカ。お前が外にいるとは」 デナンダールが忌々しげに舌を鳴らし、フィラカスースに向き直る―――青華の手を、掴んだまま。 その眉間に皺が寄るほどにデナンダールは目の前の存在を睨み、言葉を吐き捨てる。 「今日は調子が良かったのでね。久しぶりに散歩程度ならよいと、医者に許されたんだよ。…まさか、君に会うとは思わなかったけれど…デナン」 フィラカスースはそう言って、デナンダールの方へとゆっくりと歩み寄ってきた。 「とりあえず、その子を放せ。可哀想に、怯えてしまっているじゃないか」 「私がこの者を捕らえているのは、この者が怪しい動きをしていたからだ。間者の可能性も含めて捨て置くことはできぬ。…よもや、それに口出しするつもりか」 「そんなわけない！」と、青華は絶叫したかったが、何故か声が出ない。 恐怖で今まで気付かなかったが、青華は腰が抜けていたことに気付いた。 「怪しきは罰せよ、と？それはあまりに横暴だとは思わないのか」 「これはこれは、病床の兄上は国内外の情勢もご存じなかったか？、いつ何時、この城にも間者や外法の者が入り込むとも限らない。怪しい芽は早々に摘み取らねば後で痛い目を見るのはフィラカ、お前だと思うが？」 痛烈な皮肉に、二人の関係をあまり知らない青華でさえ血の気が引く。 だが、フィラカスースは笑って受け流した。 「忠告いたみいるよ。だが、デナン。君は勘違いをしているようだ」 「何？」 「その子はエンディカの遠縁にあたる子のはずだよ。どうもライテッシャのお気に入りらしくてね…。まぁ、あのエンディカのことだ。裏のある者をそうやすやすと城内に入れる彼女ではないと君も分かっているはずが？」 そういって、フィラカスースは青華の腕を掴んだデナンの手に触れた。 触れられた瞬間、デナンの表情が歪む。 「…いいだろう。その娘の処遇、お前に任せよう」 心底嫌そうな顔をして、デナンダールはやっと青華の手を放した。 それでやっと青華は胸をなでおろした。やっと解放される。 その行為に、フィラカスースも満足げに微笑んで。 「ありがとう、デナン。それじゃ、行こうか君」 「え？」 何を言われたか理解する前に、青華の腕は再びぐいっ、と掴まれた。 理解した後も、もう既にフィラカスースは歩き出した後で。 結局、青華は彼の後を着いていくしかなかったのだった。 |