木々が鬱蒼と茂る広大な庭。 一寸先さえ緑、と言えるほどに繁殖した草を掻き分けて少年は、目的の場所にたどり着いた。そこは白い石を切り出して作られた小さな祭殿だった。 だが、かつては白く輝いていたであろう祭殿の壁は薄汚れ、蔦が柱に巻きついていた。祭殿の入り口の階段には苔が生え、白い石を覆い隠している。 この祭殿が、もう何年も手入れされていないことは明白だった。 少年は、そんな祭殿の様子を悲しげに見つめた。 だが、それもほんの少しの間だけだった。 少年は、その足を祭殿の入り口へと向けた。 祭殿に入ると、祭壇がすぐ目に入った。 今はもう朽ちた祭壇は、埃を被ってそこに静かに存在していた。 所々が壊れ、石の台座も割れていたが、それでもその場所は雰囲気がどことなく普通の場所とは違う。 荘厳やそういった言葉では答えられないその存在、その空気。 少年は、この祭殿のこの空気が好きだった。 古き時代の王が建立したこの祭殿は、最も女神に近しい場所だったのだと少年は教えられた。古き時代、人は此処で女神に祈り、願ったのだと。 だが、人はいつの日からかこの祭殿の存在を忘れた。実際、新しい祭殿がいくつも作られ、古き時代のものは忘れ去られていったのだ。 だが、少年はこの祭殿を大切な人から教えられた。 『忘れないで。この場所こそ、この国で最も女神に近い場所。女神に祈るべき、最もふさわしい祭殿なのだから』 懐かしいその人の言葉は、今でも少年の心の中で響く。 今では、少年にとってその言葉は心の拠り所でもあったのだ。 少年は、祭壇の前の埃を軽く払うと、そこに膝を着いた。 そして、頭上に組んだ手を掲げ、目を瞑った。 息を深く吸い込み、意識を集中させる。 その祭壇の向こう―――青い水を湛えた泉に向かって。 それは、世界を生み育んだ女神への祈りだった。 清浄な空気に満ちたこの空間の中心には、一つの泉が存在している。 誰の目から見ても清浄な気を発するその泉こそ、この祭殿で祭られている物だった。 遥か昔、女神自身がこの地へと降り立ったと言われる泉。 その泉は、この地上で何処よりも女神に近い。 此処は、最も女神に『声』が届く場所なのだ。 「女神シャイラーテ様…」 この世界の唯一の神の名を呼び、少年は祈る。 明確な目的を込めた祈りなどではない。 ただ、祈る。 救いを求めるわけではなく、誰かを呪うわけでもなく。 ただ、彼の女神に祈る。 その行為は少年にとって既に日課になっていた。 心が疲れたときに訪れていたこの場所だけが、今では唯一の安息を得ることができる場所だった。 それほどに、少年の心は安らぎを欠いていた。 この祭殿での祈りとこの場所に残る思い出だけが、彼にとっての心のより何処だった。 今まで少年の心の拠り所であった、彼の大切な人はもういない。 彼にとってかけがえのない人であり、絶対の人でもあった人は少年を残し、逝ってしまった。 今更、どれだけ泣き叫んだところで彼の人は戻ってこない。 それはもう分かりきっていることだった。 だけど、それでも彼はここにくると涙腺が緩んでしまう。 けれど、彼の人との思い出がここには、ある。 あの侮蔑と嘲笑に満ちた場所とは違い、ここにはあるのだ。 それだけで、少年には十分だった。 この清浄な空気の中、それに浸ることができる。 それだけで、彼は満ち足りる。 前に、進むことが出来る。 少年は、自分の両手で頬を叩いた。 感傷に浸るのはもうやめよう、と祭壇の前から立ち上がる。 そして、その目線はただ真っ直ぐ前を見つめる。 前を向かなければいけなかった。 立ち向かわねばいけなかった。 いつまでも物怖じしていてはいけない。 ここで立ち止まることだけはできないと少年は知っていた。 前を向き、一歩を、踏み出す。 安息の地から、あのおぞましいもの達が跋扈するあの場所へ。 そこが、少年の立つべき場所。 逃げ出してはならない場所。 たとえ、それが本心とは違うところにあったとしても。 それでも、少年の居場所は、もはやあそこにしかなかった。 だから、進むしかないのだ。 自分が戦うべき場所…他ならぬ自分と戦わねばならぬ場所へ。 ―――前へ、進もう。此処へはまたつらいことがあったときだけ訪れればいい。 やっとの思いで、少年が一歩を踏み出した時。 それは、起こった。 「…え?」 空気の質が、変わる。 清浄なる空気の中に、それとは違うものが混じる。 それは異質にして、清浄。 それは清浄にして、壮麗。 それは、清浄なれど、ここには存在しえぬもの。 少年は、自らが背を向けたはずの泉に向かって振り向いた。 そして、そこに『奇蹟』を見る。 泉の上に光が集まる。 光が集束する。 光が爆発する。 光が、青い光が、溢れ出す――――!! それは、世界を覆い尽くすほどに美麗で強大な光。 眩き青の光の奔流が全てを飲み込んでいく。 その光は。 その青き光は―――― 少年の思考が、考えることをやめる。 否、この光の奔流、この光の洪水の中で自我を持ちえるなど不可能に等しい。 少年は、ただ、その一点を見つめていた。 その一点より流れ出す、光の奔流。 その一点より溢れる、光の洪水。 そこに、少年は見た。 そこに、青き『花』が、花開いたのを――――! |