06 泉に咲いた花

「だから、本当なんだってば!」
「はいはい、分かりました。分かりましたから、大きな声を出さないでください。彼女が 目を覚ましてしまいますよ」
 彼女の意識が浮上したのは突然だった。耳に誰かの声が届いた。少年特有の高いソプラノのような声と、落ち着きが感じられる年配の女性の少し低い声。だが、その声聞き覚えはない。誰だろうと思いながら、重い瞼を開けようとしたが、そこで彼女は、また一つの疑問に辿りつく。
(あれ?記憶が途切れてる…?)
 何か変だと思って、彼女は自分なりに頭の中で状況を整理してみる。
(確か私、自分の部屋にいたはずよね?ベッドに寝転んでいて、お腹が鳴ったから少し遅い朝食を食べようとして―――)
 それから後が思い出せなかった。
 確か、重大な何かがあったような気がするのだが…。
 不思議に思いつつ、ゆっくりと彼女は目を開ける。そして、その途端、彼女は自分の目に移る光景に息を呑んだ。
「何、これ…!?」
 それは、小さな呟きだった。だが、その呟きは悲鳴に近かった。ただ驚きすぎて、大きな声が出なかっただけだ。それほどまでに周りの状況は彼女の考えていたものから逸脱していた。

 まず始めに見たのは天井。そこには、いつもどおり何もない真っ白な天井があるはずだった。だが、それがない。それどころか、そこにあるのは灰色の石が組み合わさるようにして出来た、石畳の天井だった。
 さらに周りを見回しても、馴染みの家具やお気に入りだった雑貨は存在しない。あるのは簡素な箪笥らしいものとテーブルぐらいだ。
 そして一番不可解なのが目の前にいる二人の人物。髪の毛が、二人とも金色なのだ。そして、彼女の悲鳴に似た呟きに気づき振り返った二人の瞳の色は碧と金。少年らしき者は、ハーフパンツのような短い丈の薄茶のズボンに、体に長い緑の布を巻きつけ、それを肩のブローチのような飾りで止めたような服を着ている。もう一人の初老の女性も丈の長い簡素な淡いベージュのワンピースのようなものを着ているが、その意匠は、彼女が見知っているものとは全く違う。
 二人ともどう見ても彼女が知っている人ではないし、服装も今風ではない。
(なんなの、これは!?)
 わけがわからなくて、彼女はパニックに陥り恐怖と混乱で体が震えだした。
 何故こんなところにいるのか。
 何故こんな人達がいるのか。
 わけがわからなかった。
 彼女が混乱し震えている中、初老の女性の方が彼女に近づいてきた。
「お目覚めになられたのですね」
 初老の女性は柔らかな笑みを浮かべた。
 その笑みに、気が動転していたために、張っていた緊張が少しだけ解ける。
「…大丈夫ですか?少し混乱しているようですが」
 震える彼女の様子を見て、混乱し緊張していたのを察したのだろうか。
 初老の女性は彼女を急かさず、ただ優しく笑いかける。その柔和な雰囲気が恐怖を薄れさせたのか、彼女はゆっくりと乱れた息を整え始めた。そして、初老の女性の問いに答えるかのようにゆっくりと頷いた。
 とりあえず、先ほどよりは冷静になっている。彼女はいまだ混乱していたが、先程のように取り乱すことはなかった。
 その様子を見て、初老の女性はほっと胸をなでおろした。
「それはよかった。とりあえずこちらをお飲みください。気が静まりますから」
 そういって、傍に置いてあったコップに水差しの中身を注ぐ。そのコップ中を見ると、牛乳のような乳白色の液体が漂っていた。ただ、色はベージュに近い。
匂いも牛乳のそれとは違い、花の匂いのように甘ったるい。
(…飲むべきなのかな。これ…)
 明らかにいつまで見たことのない飲み物だった。
 しかし、彼女が迷ったのは一瞬。喉が渇いていたのも事実だったので、それを一口、口に含んだ。
口に含んだ瞬間、口の中には牛乳に似た…それでいてそれよりも濃厚な甘みが広がった。
だがそれだけではなく、同時にミントのようなさわやかさが押し寄せてくる。
 それを喉に通すと、彼女は一息つく。不思議と、それで気が落ち着いた。
「…ありがとうございました。少し落ち着きました…」
 全て飲みきってから、そう初老の女性に伝えると、「それはよかった」とまたあの柔らかな笑みを見せた。その優しい微笑を見て、なんとなく気持ちが和らいでいく。
 しかし、気は何とか静まったが、それでもまだ彼女の心臓は速い鼓動を打ち鳴らしている。それは、漠然とした不安のためだった。
 ここがどこか分からないという不安。
 目の前にいる女性や少年が誰か分からない、という不安。
 今、自分がどういう状況に置かれているのか分からないという不安。

 あげればきりがない。

 普段より速い心臓の鼓動さえ、全ての不安が圧し掛かっているからなのか、それともその不安さえ打ち負かしてしまうかのように何かが圧し掛かっているせいなのかわからない。
 だからそれを打破するためにも、自分自身がしっかりしなければならない。
 その答えに行き着いた彼女は、一呼吸おいて目を見開く。
 今は、情報が必要だった。目の前の初老の女性から、話を聞くのが先だ。そう思って、彼女は口を開く。
「あの、ここはどこですか?貴方たちは…誰、なんですか?」
 そう聞くと、彼女はまるで自分が聞くのを分かっていたかのように―――否、わかっていたのだろう。その質問について、初老の女性は懇切丁寧に答えてくれたのだ。

 ただし、一番初めに最大にわけのわからないことを言ってくれた。

 それは彼女にとってなんとも不可解なこと。

「何はともあれ、お会いできて光栄です。我等が女神シャイラーテより遣わされし、女神の娘にして使徒たるシャイラーツ様」

 そう女性は言い放ち、膝をついたのだ。


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