07 泉に咲いた花

最初、この世界は塩の海だった。
そこに降り立ったのは一人の女。
女は塩の海に、水を与えた。
水は塩を飲み込み、海は水を湛えたものとなった。
そして、水に飲まれなかった塩はやがて陸地を形成し、女はその陸地に『命』を無数に生み出した。
そして、女はこの世界の『母』となり、唯一の神となった。
そして、人はその『母』の名を讃え、『母』の名を冠したこの世界を讃えた。
世界を創世せし女神シャイラーテと、この世界シャイラーテアを―――





「王子が言ったことに偽りがないのなら、貴女様は間違いなく女神の使徒『シャイラーツ』でいらっしゃいます」
エンディカが告げた言葉に、当初彼女はただぽかん、と大きな口をあけることしかできなかった。
聞いたところによると、この世界―シャイラーテアというらしい―には、一人の全知全能の女神『シャイラーテ』と呼ばれる神様がいるのだそうだ。だが、ただ一つの身で全てを見渡し、手を差し伸べることは女神様にとっても不可能らしい。
そのため、女神は人々の真に切なる願いを聞いたとき、自らの子供である者を女神の使徒『シャイラーツ』として自らの代わりに遣わすのだという。
だが、あいにく女神様を親に持ったことなど、彼女にはありはしない。ちゃんと元の世界に母親もいるし、父親もいる。彼女には、彼ら以外を自分の親と呼ぶ気はさらさらなかったし、勝手にそんな幻想を作り上げられても困る。だから、すぐさま否定したのだ。
だが、これに対して猛烈に反対してくれたのは、エンディカではなく、その場にいた、もう一人の少年。彼女が今現在、存在する国リテリールの第3王子ライテッシャだった。
「ありえない!シャイラーツ様じゃないなんて!」
「いや、そういわれても私は何もないわけだし」
金髪の髪に碧色の瞳を持った、利発そうな顔をした美少年が憤っているのを見たときには、正直彼女は困った。彼は彼女を女神の使徒シャイラーツだと言い張るが、彼女は自分がそんなものなどではないと分かっているし、嘘をついて彼を騙すのも嫌だった。
だから、はっきり否定したのに。
それなのに。
「だって、じゃあ貴女があんな神々しすぎるくらいに『祈りの泉』に現れた経緯はどう説明する気さ!?僕は、僕は…!」

――本当に、女神の使徒様が現れたと思ったのに。
ライテッシャが、今にも泣きそうな顔で彼女を睨む。

そんなこといわれたって、私は知らない―――

彼女はそう言いたかった。
だが、ライテッシャが持つ何か切羽詰ったような雰囲気に、そう言うのが憚られる。まるで何かを思いつめているかのように見えて、拒絶の言葉を言うのが心苦しい。
「王子、そのくらいになさいませ。彼女もまた混乱しておられるのです。あなたがそう無理に責めてどうするおつもりですか」
エンディカの制止する声に、ライテッシャはやっと口を噤んだ。エンディカは、ライテッシャに落ち着くように言うと、先程と同じ飲み物を彼に手渡した。それを彼がしぶしぶ飲んでいる間に、エンディカは彼女へと向き直る。

「とりあえず、王子が嘘をつく御方ではないのは確かなのです。ですから、あなたがシャイラーツ様であるかどうかはさておき、尋常ではない現れ方をした―――というのは真実でしょう。どうか、王子を責めないであげてください」
申し訳なさそうな顔をするエンディカに彼女はすぐに頷いた。彼女にとってその性格も何も知らないライテッシャだが、あの必死に訴えかける目と表情を見れば、嘘をつくような子どもではないと分かる。
「…あれ?」
ここで、彼女は何か矛盾に気がついた。
彼女が尋常ではないほどの神々しさで現れたというのは、彼の言を信じるとしても、だ。
何故彼があれほどまでに自分を女神の使徒にしたがったのかが、彼女には分からない。伝説の人物が現れたからといって、あのように切羽詰ったような顔を見せるものだろうか。
何かが、引っかかる。何かが―――。
「彼女はシャイラーツだ!絶対にそうだ!」
「王子!」
二人の叫び声に、彼女は自らの思考から脱する。どうやら考えを脳内で巡らせていた間に、また彼らの口論が始まったらしい。
「だって…」
「…あなたが誰かに―――すがりたい気持ちはわかります。ですが、人に当たったり、自分の考えを押し付けたりしてはいけません。それは、お母様にもいわれたでしょう?」
エンディカにそういわれ、泣き出すライテッシャ。その様子を悲しそうに見ながら、エンディカは彼の頭を撫でる。
その瞬間、彼女は何かが分かったような気がした。
<女神シャイラーテは真に切なる祈りを聞き届けたときにのみ、女神の使徒シャイラーツを地上へと遣わすのです――>
先程のエンディカの言葉。
真に切なる祈り―――
その言葉の意味は。
「何か、困ってるの?」
彼女がそう聞くと、ライテッシャが涙でぬれたその顔を向ける。
一瞬の静寂。
そして、頷く、彼。
「じゃあ…、手伝ってあげようか?」

私に出来ることならば―――

そう言った彼女に、ライテッシャが近づく。そして、先程とは打って変わったように、真摯な眼差しでこちらを見た。
「貴女の名は」
その問いに、彼女は答える。彼に、自らの名を告げる―――
「青華」
その名は、青き華の意。
その日、少年に向け、それは宣言された。
そして、また―――少年に、世界に、それは受諾されたのだ。


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