最初、この世界は塩の海だった。 そこに降り立ったのは一人の女。 女は塩の海に、水を与えた。 水は塩を飲み込み、海は水を湛えたものとなった。 そして、水に飲まれなかった塩はやがて陸地を形成し、女はその陸地に『命』を無数に生み出した。 そして、女はこの世界の『母』となり、唯一の神となった。 そして、人はその『母』の名を讃え、『母』の名を冠したこの世界を讃えた。 世界を創世せし女神シャイラーテと、この世界シャイラーテアを――― 「王子が言ったことに偽りがないのなら、貴女様は間違いなく女神の使徒『シャイラーツ』でいらっしゃいます」 エンディカが告げた言葉に、当初彼女はただぽかん、と大きな口をあけることしかできなかった。 聞いたところによると、この世界―シャイラーテアというらしい―には、一人の全知全能の女神『シャイラーテ』と呼ばれる神様がいるのだそうだ。だが、ただ一つの身で全てを見渡し、手を差し伸べることは女神様にとっても不可能らしい。 そのため、女神は人々の真に切なる願いを聞いたとき、自らの子供である者を女神の使徒『シャイラーツ』として自らの代わりに遣わすのだという。 だが、あいにく女神様を親に持ったことなど、彼女にはありはしない。ちゃんと元の世界に母親もいるし、父親もいる。彼女には、彼ら以外を自分の親と呼ぶ気はさらさらなかったし、勝手にそんな幻想を作り上げられても困る。だから、すぐさま否定したのだ。 だが、これに対して猛烈に反対してくれたのは、エンディカではなく、その場にいた、もう一人の少年。彼女が今現在、存在する国リテリールの第3王子ライテッシャだった。 「ありえない!シャイラーツ様じゃないなんて!」 「いや、そういわれても私は何もないわけだし」 金髪の髪に碧色の瞳を持った、利発そうな顔をした美少年が憤っているのを見たときには、正直彼女は困った。彼は彼女を女神の使徒シャイラーツだと言い張るが、彼女は自分がそんなものなどではないと分かっているし、嘘をついて彼を騙すのも嫌だった。 だから、はっきり否定したのに。 それなのに。 「だって、じゃあ貴女があんな神々しすぎるくらいに『祈りの泉』に現れた経緯はどう説明する気さ!?僕は、僕は…!」 ――本当に、女神の使徒様が現れたと思ったのに。 ライテッシャが、今にも泣きそうな顔で彼女を睨む。 そんなこといわれたって、私は知らない――― 彼女はそう言いたかった。 だが、ライテッシャが持つ何か切羽詰ったような雰囲気に、そう言うのが憚られる。まるで何かを思いつめているかのように見えて、拒絶の言葉を言うのが心苦しい。 「王子、そのくらいになさいませ。彼女もまた混乱しておられるのです。あなたがそう無理に責めてどうするおつもりですか」 エンディカの制止する声に、ライテッシャはやっと口を噤んだ。エンディカは、ライテッシャに落ち着くように言うと、先程と同じ飲み物を彼に手渡した。それを彼がしぶしぶ飲んでいる間に、エンディカは彼女へと向き直る。 「とりあえず、王子が嘘をつく御方ではないのは確かなのです。ですから、あなたがシャイラーツ様であるかどうかはさておき、尋常ではない現れ方をした―――というのは真実でしょう。どうか、王子を責めないであげてください」 申し訳なさそうな顔をするエンディカに彼女はすぐに頷いた。彼女にとってその性格も何も知らないライテッシャだが、あの必死に訴えかける目と表情を見れば、嘘をつくような子どもではないと分かる。 「…あれ?」 ここで、彼女は何か矛盾に気がついた。 彼女が尋常ではないほどの神々しさで現れたというのは、彼の言を信じるとしても、だ。 何故彼があれほどまでに自分を女神の使徒にしたがったのかが、彼女には分からない。伝説の人物が現れたからといって、あのように切羽詰ったような顔を見せるものだろうか。 何かが、引っかかる。何かが―――。 「彼女はシャイラーツだ!絶対にそうだ!」 「王子!」 二人の叫び声に、彼女は自らの思考から脱する。どうやら考えを脳内で巡らせていた間に、また彼らの口論が始まったらしい。 「だって…」 「…あなたが誰かに―――すがりたい気持ちはわかります。ですが、人に当たったり、自分の考えを押し付けたりしてはいけません。それは、お母様にもいわれたでしょう?」 エンディカにそういわれ、泣き出すライテッシャ。その様子を悲しそうに見ながら、エンディカは彼の頭を撫でる。 その瞬間、彼女は何かが分かったような気がした。 <女神シャイラーテは真に切なる祈りを聞き届けたときにのみ、女神の使徒シャイラーツを地上へと遣わすのです――> 先程のエンディカの言葉。 真に切なる祈り――― その言葉の意味は。 「何か、困ってるの?」 彼女がそう聞くと、ライテッシャが涙でぬれたその顔を向ける。 一瞬の静寂。 そして、頷く、彼。 「じゃあ…、手伝ってあげようか?」 私に出来ることならば――― そう言った彼女に、ライテッシャが近づく。そして、先程とは打って変わったように、真摯な眼差しでこちらを見た。 「貴女の名は」 その問いに、彼女は答える。彼に、自らの名を告げる――― 「青華」 その名は、青き華の意。 その日、少年に向け、それは宣言された。 そして、また―――少年に、世界に、それは受諾されたのだ。 |