小さな音とともに何かが、弾けとんだ。 それは『彼女』のために用意した枷。 それが、『彼女』の意思によって、跡形もなく破壊される。 その様子を見て、女は困ったように笑う。 「おやおや。まさか自分で外すとは…予想外だった」 まだ『彼女』は何も理解していない。 この世界の構図、そして自分が此処にいる意味。 自分という存在の正体を。 だから、枷が外れたということは、何かが彼女の逆鱗に触れてしまったということ。 「まぁ、それはそれで、楽しいのだけれど」 女はまるで慈愛に満ちた母のように、今は遠く離れている『彼女』を思い、微笑む。 こんなことは長い長い時間の中でも、とても稀有なこと。 自ら枷を外してしまった『彼女』にはどんな結末が待っているのか。 女は、それが楽しみだった。 何だ、これは。 それを見た時、アランタールが感じたのは得体の知れないものへの恐怖だった。 いや、これはむしろ畏怖に近い。 最初はただの興味、そして退屈しのぎのつもりだった。 準備は滞りなく済み、予定は順調。 後は、決行の日を待つのみ、という日々の中で、アランタールは暇を持て余していた。 そんな時に、デナンダールが興味深い情報を洩らし、その調査を命じた。 一介の侍女が、建国祭前に咲くはずのない、《青き花(アウリフィカ)》を咲かせた。 本来、それはありえない。 アランタールは、それを知識として知っていた。 《青き花(アウリフィカ)》は、一種の呪いの要素を含んで咲く花なのだ。 その由来は、リテリールに古くから伝わる伝説に色濃く残っている。 リテリールという国が建国された時、初代国王は、女神シャイラーテアと何らかの契約を交わした。 その内容が何であったかは、既に王家の歴史にも残ってはいない。 だが、その内容はさして重要ではない。 重要なのは、契約を結んだという事実。 シャイラーテアは、契約の証として《青き花(アウリフィカ)》をリテリールに贈った、と言われている。 そして、その花は契約が結ばれた日―――建国の日に咲くように定められた。 それが、女神との契約の証としての《青き花(アウリフィカ)》の意味。 だからこそ、女神の力で定められた《青き花(アウリフィカ)》を、唯の人が咲かせることはありえない。 ありえない、はずだったのだ。 けれど、これは。 これは、どういうことなのか。 アランタールは、目の前の光景に目を奪われたまま、動けない。 人を屈服させる程強い気迫と、その存在感から目を離すことなどできるはずがなかった。 そこに、青い炎が在った。 中心に存在するそれを包むように、青い炎が放射状に広がっている。 否、青い炎ではない。 これは、あの女の力の発現によってみえる幻のようなものに過ぎないのだ。 炎のように見えるそれは、女が自ら生じさせているものだった。 それに気づき、アランタールは改めて目の前の女を見た。 そして、絶句する。 女の外見が、変わっていた。 闇を塗りこめたかのように黒だったはずの髪と瞳が、青に染まろうとしていたのだ。 髪の先端から、その色を黒から紺に、紺から青へ変えていく。 瞳もまた、黒と青が混じりあい、まるで炎が揺らめくように揺らいでいた。 ―――そして、その双眸から注がれる眼差しは、アランタールに捧げられていた。 瞳の奥底に宿る、憤怒の感情と共に。 アランタールは、本能的に悟る。 これは、危険だ。 「冗談じゃない…!」 本当に、これは洒落にならない。 何が、「できない」だ。 これは、《青き花(アウリフィカ)》を咲かせる云々のレベルではない。 むしろ、これはそれ以上。 ならば、殺られる前に殺れ。 アランタールは、即座にそう判断し、目の前の存在に対して自らの力を集束させる。 「…『風』よ!」 アランタールの力ある言葉が紡がれた瞬間、その力は女に向かってぶつかった。 風がよく通る回廊であったことが彼にとって幸いした。 アランタールは、世界でも数少ない魔術師であり、『風』を扱う。 彼にとって、この場所は好条件が揃っていた。 強烈な風が女を襲い、彼女の周りの青い炎が揺らぐ。 あまりに強い風に女が反射的に目を閉じた瞬間、それがチャンスだった。 すばやく女の懐に入り込むと、アランタールは彼女の鳩尾に強烈な一撃をお見舞いする。 「がっ」 くぐもった声が女の口から洩れ、女の身体が地面に崩れ落ちた。 それと同時に回りに出現していた青い炎も、一瞬にして掻き消える。 女は意識を失ったのか、地面に倒れたまま動かなかった。 何故か、青く変質しかけていた髪もいつの間にか元の黒髪に戻っている。 あれだけ圧倒的な気迫を伴って存在していたというのに、その片鱗すらも感じないほど辺りは静かだった。 正直、あまりにあっけなかったことが、アランタールにとっては意外だった。 だが、あの時に感じた恐怖と合い混じった感覚を思い出しただけで鳥肌が立つ。 ―――ここで、始末してしまうべきか。 意識を失った今の状態ならば、それを行うのは容易い。 だが、殺してしまうには惜しい気がした。 あの時感じたのは、確かに恐怖だった。 だが、それが収まった今、アランタールの中で好奇心が騒ぐ。 見たことのない力に惹かれているのだ。 けれど、此処で得体の知れない何かが登場することは、『計画』上好ましくない。 下手をすれば、緻密に練った『計画』自体に支障が出かねない。 アランタールは悩んだが、一時して、その女を肩に担いだ。 結局、計画云々よりも、自らの好奇心が勝った。 考えてみれば、悩む必要など無かった。 何故なら、アランタールにとって『計画』とは、そう重要なことではないのだから。 ただ、必要とされたから、請け負っただけのこと。 自らが、それに殉じる必要はどこにも無かったのだ。 「……そういえば名前、聞いてなかったな」 今更、そのことを思い出して、彼は自分の興味の対象を横目でちらりと伺う。 完全に気を失った女は、ぴくりとも動かず、その瞼を固く閉じたままだ。 だが、彼女の怒りに燃えた瞳と、放射状に広がった青い炎を見た時。 それを美しいと、アランタールはそう思ったのだ。 |